

メッカ巡礼記 アルラーフ アクバル(アルラーは偉大である) カアパ神殿に額づいた私は、イスラーム教徒であることの幸せを感謝してひたすら祈った ムーサ・ムハマムド・オマル 私の故郷はスーダンという国である。スーダンがアフリカ大陸の北東部に位置する国であることを知っている人はいても、イスラーム圏の国であることを知る人は少ない。いずれにしても私はイスラームの世界に生まれ育った。幼い私の小さな胸の中に湧いてきた夢を、実現可能な夢がもしれないと気づき、大切にしようと思ったのは、私が七歳の時、ちょうど小学校に入る年であった。その夢とは、イスラム教徒なら、一生に一度は詣でねばならないとされているメッカ巡礼の夢であった。毎日小学校で、そして家で、五回礼拝に立つ度に、そのイメージはふくらみ続けた。その当時は、自分の小さな生活圏の外に、どんな世界が広がっているかさえ、想像もつかない切なさであったが、一枚の写真で見た、メッカのカアバ神殿の不思議な力強さは、強く私の心をとらえて離さなかった。 成長するにつれて、それはさらに強いものへとなっていった。村の大人たちがグループで、メッカ巡礼へ旅立っていく光景は身近なものであり、たいへんなお祭り騒ぎであったことを良く覚えている。そして出発の時にもまして、人々がメッカから帰って来る時の期待感は、夜も眠れないほどであった。山のような異国のおみやげと、世界各地からの人間が集まって、いろいろなおもしろい話に花を咲かせているという、みやげ話が幼い私たちの胸をときめかせた。 淡い夢であった”メッカヘの旅“が、こうしたみやげ話に刺激されていつかは自分も必ず行くんだという気持に変わっていった。しかし、いつ実現できるともわからない夢を追いつつ大きくなり、大学をも卒業する年になった。その頃、私は建築家への道を選び、特に日本の古い建築様式に惹かれていたのだが、幸運にも私に、早稲田大学で建築を学ぶチャンスが与えられた。その時がメッカ巡礼への最初のチャンスでもあった。できれば日本へ向う途中、サウジアラビアのメッカヘ立ち寄って行こうと思いついたからだ。だが不運にも四月であり、メッカ巡礼の季節ではなかった。飛行機の窓から遠いメッカの風景を思い浮かべて、唇をかみしめるしかなかった。 日本に着いた私には、新しい生活が待ちうけていた。それは新鮮な毎日ではあったが、心の中に大きな壁ができてしまったような気がした。というのは故国スーダンにいれば、紅海を隔てて一時間半の距離にメッカはあるが、ユーラシヤ大陸の東の果て、日本へ来てしまったことは、その何十倍もの空間の広がりをいやおうなく感じさせられるからだった。私にとってメッカヘの道は遠いものとなってしまったが、東京の忙しい一日を終え夜にでもなると、フッと魔がさしたようにメッカヘの熱い想いがこみ上げてくるのを、おしとどめたことは何回もあった。 四年の月日が流れた。そんなある日、突然在日サウジアラビア大使館から一通の電話が入った。サウジアラビアと聞いただけで、懐かしさばかりとはいえない奇妙な身震いが身体を走った。「サウジアラビアのリヤドで開かれる、国際イスラーム青年セミナーへ、日本に住むムスリム(イスラム教徒)の青年を招きたい」というのがその電話の内容であった。出発の日は一週間後に迫っていた。準備することは山ほどあったにもかかわらず、七歳の時からあたためてきた夢が、思いがけずも一週間後に実現するということに、私の心は酔っていた。心の中が整理できぬまま機中の人となり、ベイルートに着いた。ベイルートでサウジアラビア航空に乗りかえ、十二月十七日、首都リヤドの地を踏みしめた。一般にサウジアラビアというと猛烈に暑い国というイメージがあるが、寒い冬の日本から来たにもかかわらず私の頬に、砂漠をわたってくる風はむしろ心地良かった。同じ国内とはいえ、リヤドからメッカの街まではまだ何百キロもの野が横たわっている。 リヤド大学でのセミナーは、各国より集まった代表者達の熱気のうちに始まった。参加者はイスラームの世界から選ばれた若い研究者や学者たち。セミナーのテーマは、「現代社会の中での青年の役割について」。サブテーマはイスラーム諸国に生まれた優秀な学者たちが国外で活躍している(特にアメリカ、ヨーロッパ)事実をふまえて、「彼らが祖国になにをなし得るか」というものであった。ヨーロッパ、アメリカからの若い代表にまじって韓国の代表はおじいさんだった。彼は韓国語と日本語しかできないので、英語、アラビア語、日本語のできる私が通訳に立ち、まるで一人の日本人のように振るまった時には、イスラームの精神通りに、言葉も、文化も越えて、一つに溶けていく世界ができていることを発見して嬉しかった。 メッカヘの道 セミナーを終えてリヤドを後にし、次にメディーナに向った。サウジアラビアに着いてもメッカヘの道はまだまだ遠い。真打ちは最後に登場するのだ。メディーナは聖地メッカの北方四百七十キロのところにある古い街である。リヤドが “砂漠の豹”とうたわれたサウジアラビア建国の祖イブン・サウド王ゆかりの地ならば、メディーナはイスラーム教の予言者ムハムマドのゆかりの地である。この街は西暦六二二年、ムハムマドがメッカの豪族の迫害を受け、わずか百人たらずの信徒をひき連れて逃れた場所で、ここに移ってからの予言者は、単なる予言者という性格をこえて、メディーナの政治的な指導者としても才能を発揮し(このあたりがジーザス・クイラストと違うところか)、激しい闘いを繰り返しながらも、着実に周辺部族をイスラームに改宗させ、新しいイスラームの理念に基づいた国家(ウンマ)を形成した。その後十年もの月日を費やして悲願のアラビア半島を統一し、メッカに凱旋した。 メディーナは山に囲まれた地勢にあり、空港から街への道路沿いには、まだ真新しい火山活動による落石が点在し、砂漠の中のオアシスの街リヤドとは景観を異にしていた。気候は一年中安定しており、住み易く、商業にたずさわる人が多い。古くはユダヤ人、現在はトルコ人、インド人、パキスタン人、中国人、そしてアフリカからの人と、実にさまざまな顔が見られた。七世紀に予言者ムハムマドが建てたモスクが、大地に根をおろしたように厳然と残っており・大理石を築きあげた壁面には、波乱にとんだアラビアの歴史がそのまま刻みこまれていた。アラビア服を身にまとい、頭にベールをかぶる男たちの顔にも、モスクの壁面と同じように厳しい風土の重さが刻みつけられているように見えたのは思い過ごしか。 旅は続けられた。今は亡きファイサル国王の前で、セミナーの結果を発表する日が近づいた。まだ日本にいた頃、来日した国王に初めてお目にかかったことがあったが、その静かな物腰と威厳あふれる容貌は、頭の中に鮮かに甦り、ジェッダの町で再会できたことは、何よりの光栄だった。港町ジェッダに着き、王宮を訪ね国王に謁見した。忙がしい毎日にもかかわらず、実に気さくに、紅茶をすすりながらいろいろなアドバイスを与えてくれた。父親のようなやさしい人という、その時の印象は今でも懐かしい気持とともにはっきり想い出すことができる。ジェッダは聖地メッカまで約六十キロの地点にある、紅海に面した大きな町で、海から吹き寄せる風は、熱い内陸の旅を続けてきた私には実に気持よく、紅海の青さとアラビアの大地のコントラストは、そのままメッカヘ連なる地平が分ける、空の青さと褐色の広野に置き換えられた。メッカヘの道は望洋とした砂漠の中に、真っ直ぐに伸びているものと幼いころから想像していたのだが、目前に広がる景色は、山また山の連なりで、それを縫うように近代的なハイウェーが光っていた。 食料などを買い込んでジェッダをあとにした私の車は、まもなく止められてしまった。前の車から順に何やら検査を受けている。メッカは言わずもがなイスラーム教の聖地であり、ムスリム(イスラーム教徒)以外の人間が立ち入ることは、絶対に禁じられており、そのための、日本でいうところの関所にさしかかったのだ。私達は政府のゲストであったため、すぐに通過できたが、一般の巡礼者はパスポートを指示し、そこにあらかじめムスリムであるという証明をもらっているのだが、自分が間違いなくイスラーム教徒であることを証明せねばならない。メッカヘ通じるすべての道には関門があり、異教徒が潜入することは絶対不可能である。ハイウェーは、世界各地からの信仰心厚い人々を満載した車で溢れ、その光景を僻鰍で見たならば、さしずめ宗教への情熱が一つの奔流となってメッカヘメッカヘと注ぎ込んでいるように見えたであろう。 話は前後するが、巡礼に参加する人間は、一人残らずメッカに入る前に、定められた地点でおのおのの旅に疲れ、汚れた民族衣裳を脱ぎ、持参した白い二枚の布で身を包む。帽子の着用も許されない。身体は、頭の先から足のつま先まで浄めなければならない。船でくる人は、上陸する前の船の中で、飛行機で空からくる人は定められた地点の上空を飛行機が通過する時、機内で着替えるのだ。この習慣は、国境を越え、文化を越え、貧富の差を越えてすべての人間が等しくアルラーの前に立つことを意味している。そこでは民族問題も、国境紛争も、人種問題も昇華した新しい世界が形造られる。それはまさにイスラームの精神から発揚したものである。ジェッダをたってから約一時間後、メッカに入った。七歳からの夢はいま現実のものとなったのだ。その時の気持は、感動というよりもむしろ放心状態に近いものであった。宿舎に着くと一気に旅の疲れが出てきたものの、四時まで仮眠をとり、強い太陽の陽ざしが哀えてからカアバ神殿に行こうという友の言葉は、一刻も早く神殿に立ちたかった私にはきつい言葉だった。 カアバ神殿に出かける四時までの三時間は、まるで十年の年月に等しいほど、長く重苦しい時間であった。カアバ神殿が遠くに望めるのではないだろうかと見渡しても、ただ見えるのはメッカを取り囲む褐色の山々ばかりである。街の通りには二百万の巡礼者達の喧噪が渦巻いていた。荷を解き、横になりカアバ神殿の様子を頭に描いて白日夢に耽っていた時、いつどこからともなく聞こえてきた朗々としたアザーン(礼拝への呼びかけの声)の響きを耳にして、いたたまれなくなって、一人力アバ神殿目指して宿を抜け出した。道がわからなくてタクシーを拾った。たいへんな人で混雑する通りをタクシーはノロノロと進んだ。神殿は小さな丘を越えたところに、めくるめくアラビアの午後の陽をいっぱいに浴びて超然とたたずんでいた。スクリーンが突然上がったかのように、目の前に現われたカアバ神殿と、そこに集う白衣をまとった人々の姿は、聖地の名にふさわし過ぎるものであった。左肩をはずして右肩より足元まで長くまきつけた白衣に身を包み、革サンダルをはいて、群衆の中の一人となった。私の心は七歳の時から描き続けた夢の実現を目のあたりにして緊張と感動にふるえていた。 神殿をめぐる回廊の長さは、ゆうにニキロにわたり、回廊の天井は高く、屋上までは二十メートルにも及ぶ。その巨大な建築に囲まれた中は広場となっており、その中央に一辺約十二メートルの正方形の型をしたカアバ神殿があった。神殿は黒い布におおわれ、その周囲には立錘の余地もないほどの人々。グローバルなコミュニティと呼んでしまうと味気なく、あまりにもおどろおどろしい魂の融合がそこにはあった。 アルラーのみ許ヘ カアバ神殿。この建物は現存する世界有数の古い建築ではないだろうか。歴史を豊かにさかのぼれば、人類誕生の創生期の頃、アダムの息子シースが、最初に、アルラー(神)の命によりこの神殿を造った。次に予言者アブラハムが再築し、七世紀、イスラームの教えが下される五年前に当時メッカに住んでいたクライシュ族がさらに手を加え、イスラームの時代に入り最初の一世紀に火事のために二回建て直され、オスマントルコの支配下にあった一六二六年頃に最後の手が加えられた。...
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